逮捕時の実名報道による名誉毀損

逮捕時に実名報道がなされ、逮捕・勾留後に不起訴処分となった件での判決

私は特段フォローしていたわけではないが、こうした訴訟があり、最近判決が出たということだ。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2015093000868
(時事通信)

毎日新聞に55万円賠償命令=不起訴男性の名誉毀損-東京地裁

愛知県警に偽造有印私文書行使容疑で逮捕され、不起訴処分となった東京都の介護士佃治彦さん(57)が、逮捕時の実名報道によってプライバシーを侵害されたなどとして、朝日、毎日、中日の新聞3社に計2200万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が30日、東京地裁であった。阪本勝裁判長は毎日新聞に55万円の支払いを命じ、他2社への訴えは棄却した。
阪本裁判長は、3社の実名報道によるプライバシー侵害は認めなかった。一方で、毎日が逮捕容疑を「有印私文書偽造、同行使」と書いた点について「真実とは言えない」と指摘し、名誉毀損(きそん)に当たると認定した。
判決によると、佃さんは2010年2月、偽造された契約書を民事裁判で証拠として提出したとして逮捕されたが、一貫して容疑を否認。同年3月に不起訴処分となった。
毎日新聞社の話 判決内容を十分に検討の上、対応を決める。(2015/09/30-19:06)

http://www.sankei.com/affairs/news/150930/afr1509300029-n1.html
(共同通信の配信記事)

実名報道「意義大きい」 容疑誤報には賠償命じる

愛知県警に逮捕され不起訴となった佃治彦さん(57)が「実名報道で被害を受けた」などとして新聞3社に損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は30日、「容疑者の氏名を公表する社会的意義は大きい」として、朝日新聞社と中日新聞社への請求を棄却した。逮捕容疑を誤って報道した毎日新聞社には、名誉を傷つけたとして55万円の支払いを命じた。
判決によると、佃さんは平成22年2月、偽造有印私文書行使容疑で逮捕されたことを3社に実名で報じられ、翌月不起訴処分となった。佃さんは、軽微な事件を実名報道する必要はないと主張したが、阪本勝裁判長は「容疑者を特定することで報道内容の真実性が担保され、捜査が適正か監視できる」と退けた。
判決後の記者会見で佃さんは控訴する方針を示した。毎日新聞は「判決を検討して対応を決めたい」、朝日新聞社広報部は「主張が認められた」、中日新聞は「妥当な判断だ」とのコメントをそれぞれ出した。

この件特有の事情もあるだろうが、それを捨象して一般論として考えると、有名でない市井の人がさほど社会的に緊急性・重大性のない事件で逮捕されたようなときに、すぐさま報道されてよいのか、という問題がありそうだ。

この問題に関しては、今回、朝日新聞社と中日新聞社への請求が棄却されたように、報道内容の真実性の担保、捜査の適正の監視、といったことを重視し、名誉毀損などの不法行為への該当を否定するのが現在の司法の主流的考え方だ。

報道内容に誤りがあった場合

しかし、今回、毎日新聞社への請求は一部認容された。それは、報じた被疑罪名に誤りがあったためであるようだ。
今回の間違い方のパターンだと、警察が誤った内容を報道機関に教えたというものではないし、誤りであることがはっきりしているので、毎日新聞社の記者が誤ったのだと判断しやすかったというところがあるだろう。
私の経験上、新聞報道に書かれていることが被疑事実や逮捕前後の経緯とは食い違っているということは、ときどきあることである。ただ、今回の毎日新聞のように「誤り」であることを認めないことができないようなケースばかりではない。警察が言っていることが事実を取り違えていたり、書き間違い・しゃべり間違いというようなことだったしたら、報道機関は「取材源が言っていたとおり書いただけだ」という反論をする可能性が高い。
どのような誤りがあったときに名誉棄損にあたるのか、また、報道機関側がどのような反論を提出可能なのかは、要検討だろう。

新聞かインターネットか

各地方で起きる刑事事件は、比較的幅広く地元紙に掲載されている。インターネットのニュースサイトに掲載されるのはそのごく一部だが、明確な選別基準があるわけではない。テレビのニュースになり、その原稿がインターネットに掲載されるという場合も多い。
新聞であれば、掲載された情報の伝播方法は、基本的に口コミである。しかし、インターネットの場合には、消さない限り発信し続けられていることになるし、コピーもしやすい。よって、報道による名誉棄損が認められるとして、地元紙の紙面だけなのか、全国紙なのか、インターネット上なのかというのは、相当重要な要素になってくるのではないだろうか。

反対尋問を経ない陳述書の証明力について

最近、私が担当している民事訴訟で、証拠として関係者の陳述書を提出する機会がありました。

提出先は地方裁判所です。

弁論準備手続でその陳述書を取り調べたとき、裁判官がある発言をしたのですが、それは後述します。

この裁判官の発言を聞いて、以前簡易裁判所で経験した理不尽なことを思い出したのでした…。

陳述書って?

裁判所の民事訴訟では、「陳述書」を多用します。この陳述書、どういう位置づけかというと、訴訟での法律上の「主張」を裏付ける「証拠」です。要するに、証明したい事柄を記した書面ではなく、証明したい事柄を証明するための材料そのものです。

この、「主張」と「証拠」の違いが非常に重要なポイントです。

訴訟では、何も証拠を出さないと、相手が自分から認めない限り、「主張しているだけで証拠がない」という扱いになります。ここでいう「証拠」というのは、たとえば、契約書のようなもの、日記のようなもの、写真のようなもの、誰かの証言、現地を検証した結果などです。これは、訴訟の類型によって本当に千差万別です。

このうち、誰かの証言というのは、主に法廷で行われる証人尋問とか本人尋問のことです。証人や本人(原告や被告)が話したことが証拠になります。もちろん、言うだけで全部正しいとはなりません。他の証拠などによる裏付けがなければ、証明力(事実を証明する力)が弱くなります。証言の証明力もさまざまなのです。また、反対尋問と言って、相手方は証明力を崩すための尋問をしますので、一見もっともらしく証言しても、逆効果になることもあります。

ところで、現在、日本の裁判所では、ぶっつけで証人尋問や本人尋問をすることは少なく、事前に証人・本人を作成者とする「陳述書」を提出させます。これによって、裁判官は、事前に証人の発言内容を予測して、的確に発言を捉えることができるようになります。また、反対尋問をする相手方は、陳述書を参考にして反対尋問の準備をします。

こうした陳述書の作成者は、そこに名前を書く人(名義人)ということになります。

しかし、実際には、こうした陳述書の作成過程というのは多様です。名義人が自分で構成して仕上げるということもあります。弁護士が名義人から事情を聴き取ってそれを書面化し、名義人がその内容を確認の上署名押印するという場合もあります。弁護士が代理人に付いている訴訟の場合は、弁護士の手で証拠を裁判所に提出するのが通常ですので、どちらかといえば、弁護士が内容をまとめることのほうが多いでしょう。

このように、弁護士が話を聴き取って陳述書の内容をまとめるということ自体は、特に問題なく行われています。このようにして出来上がった書面であっても、作成者は名義人です。もちろん、名義人自身が書面の内容と自分の記憶をしっかりと照合して、内容に間違いのないことを確認した上で、署名押印をする必要があります。それをいい加減にしていると、証人尋問のとき、名義人自身が述べていることとして陳述書に書かれていることなのに、「そんなこと知りません」とか「違います」ということになって、陳述書の内容全体の信用性がガタッと落ちてしまいます。

逆の観点から言えば、陳述書におかしなこと(特に、重要な客観的証拠に反する内容)が書かれている場合、訴訟の相手方は、証人尋問(反対尋問)のときに、陳述書の名義人に対し、それを問いただす質問ができるということになります。陳述書というある意味「書き放題」な書面は、そうした反対尋問を経ることで、その信用性が測定されるわけです。

反対尋問がされないとき、陳述書は…

冒頭の話に戻ります。

私は、関係者が作成した陳述書を提出しました。しかし、重要な争点との関連性が薄いこともあり、私はその関係者の証人尋問を申請しませんでした。

相手方も、その関係者の証人尋問を申請せず、裁判所も職権で尋問することはないようでした。

この場合、この陳述書は、言いっぱなしになります。ここに書かれたことはどう扱われるべきでしょうか?

ここで、裁判官の発言がありました。「反対尋問を経ていない陳述書ですので、相応の証明力になります。」という趣旨の発言でした。

私は、陳述書を提出した側ですが、この考え方については、一般論として賛同します。争いのある争点について、その関係者の述べることを柱に立証したいという場合には、立証したいと望む側がその関係者を証人申請して、相手方に反対尋問の機会を与えるべきであると思います。そうやって、反対尋問の洗礼を浴びてもなお、その関係者の述べることに真実味があると判断できる場合には、その陳述書や証言に高い証拠価値が置かれることになるべきです。

私の、簡裁での理不尽な記憶とは…

ここで、次のような考え方もあるかもしれません。

陳述書を提出した側がその関係者の証人申請をしない場合に、相手方もその関係者の証人申請をできるのではないか? そうやってスルーしたということは、反対尋問権の放棄と考えて、裁判所がその陳述書を根拠にして自由に事実認定してしまってよいのではないか? (特に、その関係者が裁判所に出て来られないような特段の事情がない場合です。)

しかし、このような考え方は妥当ではないと私は思います。陳述書を出して証人申請しないという場合、そこに書かれたことを単にそのまま引用して判決を書かれても困るので、相手方が証人申請しないといけなくなります。相手方の証人を裁判所に同行するわけにもいかないので、裁判所を通じて呼出状を出してもらい、旅費や日当なども仮に負担したりしなければならなくなります。

これは明らかに実のない駆け引きです。こういう事態を誘発しないように、陳述書を出した側(立証したいことがある側)がその陳述書の作成者を証人申請しない場合には、相手方が作成者を証人申請しなくても、陳述書の証明力はそれ相応に取り扱われるべきでしょう。

この考え方は、法曹一般に理解されていることだと思っています。

しかし、弁護士になって間もない頃、私は、簡易裁判所で理不尽な思いをしました。私が被告側を引き受けていた民事訴訟でのことです。

大まかな事件の構図を言うと、両者の押印のある典型的な契約書があり、相手方(原告)がその契約書の内容とは異なる契約内容を主張しているという事件でした。相手方(原告)は原告本人の陳述書を提出しましたが、それは弁護士がまとめた作文のような内容で、原告本人尋問も申請しませんでした。被告申請により、被告関係者の尋問だけが行われました。

ところが、判決には、「被告は原告の陳述書の作成の真正を争っておらず、原告の陳述書を証拠とすることに同意している」とか「原告の陳述書は具体的で迫真性を有するから信用できる」「それに反する被告の主張は採用できない」というような意味合いのことが書かれていて、契約書は無視されてしまい、陳述書に書かれた契約内容がそのまま事実として認定されてしまいました。

私は、この判決を読んで、簡易裁判所の場合は、裁判官役の人が法律家の常識を備えていない場合もあるのだと知りました。これ以降、かなり警戒感を持っています。

ただ、このときの対応に関しては、私もかなり甘かったのだと思います。その簡裁判事は、「原告自身がこの陳述書を作成したという点については、被告も争わないのですね」ということをわざわざ確かめてきたことがあったのです。刑事事件で、弁護人が、検察官や警察官作成の被告人供述調書をそのまま証拠とすることに同意するかしないか意見を言うシステムがあるのですが、その裁判官役は、どうやらそのやり方で証拠とすることの同意をとってしまえば陳述書の内容をそのまま判決にできると思ったようなのです。その頃の私は、判決を読んではじめてその発言の意図を知った未熟者でした。イヤな予感はしていたのですが、本当にそうだったのか、という…。

なお、その判決書には、私の名前の前に

訴訟代理人弁護人って書かれてました。

いや、私、刑事事件の弁護人じゃないんですが…。何の法廷だったのか。

その後も、簡裁ってどうかな、と思う出来事がいくつかあるんですが、この件が最も強烈で、ずっと忘れません。

最近、こちらが訴えた簡裁の事件で、相手方(被告)の弁護士が、移送の上申書ではなく、うまく準備書面で移送をやんわりと促していて、簡裁判事もそれを読んで地裁に移送していました。ベテランになると、簡裁判事の顔を潰さず移送させるうまいやり方を持っておられるのだなぁと思いました。

今回の地裁の裁判官の発言で、苦い思い出をまた思い出し、それとともに、地裁はまだ基本的な部分で信頼できるなと思った次第です…。これからも経験を積み重ねて、いろいろな事態に対応できるよう努めていきたいと思っています。

残業代(割増賃金)の付加金 訴額に入れるのか入れないのか

最近、破産管財に関する懇談会・勉強会に出席したところ、話題の一環として、未払い残業代の「付加金」の話が出てきた。

破産者の破産管財人は、破産者が使用者(雇用主)に対し未払い残業代の支払い請求権を有している場合、使用者(雇用主)に対して訴訟を提起して残業代のみならず付加金の支払いを求めることができるか? できるとすれば金額(割合)に限度があるのか? というような話だ。

この話の中で、訴訟で付加金請求をしたときの訴額算定の話がちらりと出て、どなたかが「付加金の金額も訴額算定の基礎になる」という発言をされた。

しかし、私は、付加金(労働基準法114条)というのは、裁判所が使用者に対する制裁として命じることができる政策的なものであり(もちろん反射的に雇用者への恩恵になるが)、これが独立して訴訟物を構成するものではないから、未払い残業代(割増賃金)と同額の付加金を請求に挙げたことによって残業代(割増賃金)についての訴額が実質的に倍になってしまうというのに違和感があった。

そこで、ちょっと調べてみたところ、なんと、裁判所ごとに考え方が異なっていて、付加金を訴額算定の基礎に入れる地裁と入れない地裁があるということのようだ。

東京地裁は、付加金請求は付帯請求であると考えて、訴額には入れない。

大阪地裁は、請求する付加金の金額を訴額に入れる扱い。

東京の弁護士による説明には、訴額に入れないとはっきり書いているのもあるくらいなのに…。

大阪には、この差異について取り上げて語っておられる弁護士も複数おられる。(坂本昌史先生 sir.child先生…)

訴額への影響が大きいため、管轄(簡易裁判所に訴訟提起できるか、できないか)にも関わってくる。そこで、地方裁判所の訴訟代理権のない司法書士も気にする点のようだ。

そして、巷の情報(ブログなど…)によると、福岡地裁・神戸地裁は訴額に算入しない、驚くことに大阪地裁堺支部も訴額に算入しないのだとか。ただ、これって、一般論に立ち返ると、裁判長(裁判官)の訴状審査権(民事訴訟法137条)によるものだろうから、必ずしも地裁(支部)ごとの話ではなく、事件が係属する裁判体ごとの判断ということになってくるのだろう。でも、東京地裁本庁と大阪地裁本庁での扱いは、裁判官ごとの自由というよりは、それぞれの労働専門部の見解なのだろう。たぶん。

そこで、金沢地裁、富山地裁、福井地裁やそれらの各支部での扱いが気になってくるところだ。司法書士のすずきしんたろう先生によると、名古屋地裁本庁では訴額に入れるらしく、2010年に北陸のどこかの地裁本庁に電話をかけて、「名古屋では入る」と言いながら聞いたところ、「名古屋に準じて入る」と言われたそうな。

しかし、その時点から今まで日が経っていて裁判官も書記官も代わっている中で、その取り扱いが受け継がれているのかは謎だ(そもそも、当時扱いがしっかり定まっていたのかも謎だ)。ただ、冒頭に書いた懇談会・勉強会で、弁護士のどなたかが「入る」という旨のご発言をなさったということで、現在金沢地裁では「入る」扱いをとっているか、そういう扱いをとる裁判官がいるのではないかと思われる(全員そうかどうかはわからない)。

何もないのに聞くというのもおかしいので、今度付加金が発生するような案件(端的に言えば、残業代請求とか…)があったらどうなっているのか聞いてみたい。印紙不足で訴状却下にされた上で即時抗告で争うなんてのは、さすがに大変だと思うけれど(それをやるなら、できるだけ東京高裁管内でやりたい気がする。なんとなく。)。

年金担保貸付に要注意

年金担保貸付の落とし穴

独立行政法人福祉医療機構の「年金担保貸付」という制度がある。

この制度は、年金受給権を担保として融資を受けられる制度であるが、厚生年金保険法と国民年金法で年金受給権を担保とした貸付が禁じられている中で、国が特別に設けた制度である。

福祉医療機構という善良そうな組織名と、国が特別に作った制度だということで、何やら表面的には安心感が漂う…。しかし、実は、高齢債務者の債務整理にあたり、債務者がこの制度を利用していた場合、生活債権の足かせになりかねないものである。

破産後も年金から差し引かれ続ける

どういうことかというと、まず第一に、この制度によって年金受給権を担保に供していた場合、破産しても、福祉医療機構が相変わらず年金支給機関から年金を受け取り、契約で定められた分年金をきっちり差し引いてしまう、受給者が受け取れるのは差し引かれた後の年金だということである。よって、現実的に働くことのできない高齢債務者は、破産後、年金が差し引かれているうちは自主的な生活再建が困難である。

高齢の年金受給者で、やむをえず破産に至る可能性の高いのは、企業経営絡みで連帯保証人になっている者ではないかと思われるが、そうした者がこの「年金担保貸付」を利用している場合、取り扱いに注意すべきだ。

代理店金融機関が得るおこぼれ

第二に、私が破産手続ではなく任意整理において、職務上経験したケース。

この「年金担保貸付」は「独立行政法人福祉医療機構代理店」と表示されている金融機関を通じて申し込むのだが、福祉医療機構が年金支給機関から年金を受け取り、福祉医療機構の分を差し引き、その後は、代理店の金融機関の口座に入金することになっている。そこで、高齢債務者が債務不履行状態になっていて、代理店金融機関に対する債務のある場合には、代理店金融機関は債務者名義の口座を凍結し預金と債務を相殺しようとする。

そこで、である。この場合、福祉医療機構の分を差し引いても、年金は半分程度残っていたりするのだが、代理店の金融機関は、それが入金されるのを待ち構えていて相殺しようとするのである。

これについては、そうやって入ってくるお金は明らかに年金であるから、「差押禁止債権を原資とする預金債権の差押え」の問題となるのではないかと考えられる。

この点、私のケースで、石川県の某金融機関は、最高裁平成10年2月10日判決を盾にとって、預金として入金後は識別不可能だから差押え可能だと説明し、差押えを実行した。このケースでは諸事情あり、裁判所で争うことはなかったが、私は、このケースは、上記最高裁判決後に出された東京地裁平成15年5月28日判決のように、実質的には識別・特定可能であり(だって、凍結しているところにまんまと入ってくるお金だし・・・)、差押禁止にあたり相殺できないのではないかと思う。

しかし、このケースそのものについての判決例は見当たらなかった。そのため、こうやって争いになること自体が嫌忌すべきリスクではあろう。

なお、この場合でも、任意整理ではなく破産手続を選択すれば、代理店金融機関が優先的に弁済を受けることはできないことになるだろう。

年金担保は縮小、廃止へ

この年金担保という制度、年金の前借りというような異様な制度であり、それなのに実質的に審査しているのが窓口金融機関ということで、福祉的な観点が薄れ、望ましくない様相を呈していた。

また、この制度と生活保護を併用するような人たち(年金を前借りしておいて、後の期間で生活費が不足したら生活保護を受けるというような形か・・・)も出現するに至って、廃止論が高まり、民主党政権下の事業仕分けで廃止評決が出された。

それを受けて、厚生労働省は、制度の廃止に向けて現在も動いている(融資限度額を下げるなどしている)が、なかなかすっぱりとは廃止できないようである。

裁判によって人は救われるのか? 思いつきメモ

もともと、私はいろんなものを懐疑的に見るようなところがあるので、弁護士になるにあたって、別に「弁護士になって正義のために力を尽くすのだ。自分が信念に基づいて働くことで社会は良くなるのだ。」と思っていたわけではない。

むしろ、「調べる」、「知る」ということが好きなので、そうしたことに関連する楽しみがあるのではないかと思っていた。うまく表現しにくいが、「知的好奇心」といったところだ。

今は、事件の登場人物それぞれの立場から見て、その人ごとに主張する「事実」が異なること、「正しさ」の感覚が異なること、「落としどころ」の捉え方が異なることを面白いと思っている。

そうやって、事件を概観して、各立場からの眺めを想像することが興味深いからこそ、この仕事に楽しさを感じる。

図太い正義感や思想上の強い信念がなくても、仕事に取り組むことは楽しいし、案外ストレスを感じていない。

ストレスをあまり感じないのは、当事者と完全には「同じ気持ち」になっていないからであるかもしれない。しかし、私は、当事者の気持ちを理解していないわけではない。

むしろ、私は、自分のことを、いろいろな立場にいる人の「意図」を推察するのが得意だと思っている(勝手にそう思っている)。

 

裁判によって、人は救われるのか?

この問いに対し、一言で答えることはできないだろう。

救われるべくして救われる人もいれば、救われるべきなのに救われない人もいる。救われるべきではないのに救われてしまう人もいれば、当然救われない人もいる。

そして、司法手続によって不幸になる人もいる。司法手続の作用により泣く人もいる。

刑事手続の結果・過程により、刑罰権の行使対象になったり、被疑者となって実質的な制裁を受けたりする人は多いが、そうしたことが誰かのためになっていることもあれば、マイナスの連鎖を生んでいる場合もある。

 

弁護士の仕事は、何なのか?

司法手続によって、正当な自己の権利を実現したい人の手助けをする役目? 逆に、「正当な権利を実現したい」と思ってアクションを起こした人には、相手方が存在することが多く、相手方にも言い分はあるだろう(検察官に起訴された被告人もこのカテゴリーに入るかもしれない)。そういう意味では、弁護士は、司法手続に巻き込まれた人を手助けする立場でもある。

正当な権利は実現されるべきだというのは「正しい」命題かもしれない。それを実現する場所は、裁判所か。しかし、裁判所を通じることによって、当事者が実際体験したこと以外のところで有利不利が生じることがある。裁判所では「法律」という言語システムを理解していなければ、適切なタイミングで適切な主張を酌み取ってもらうことができないことがあり、「いい弁護士」が付いていると有利になり、その相手方が不利になることが否めない。大まかに言えば、「うまいことやった」者が「うまいことやらなかった」者より有利になるという可能性があるということだ。

弁護士は、依頼者が正当な権利を実現しようと希求している限り、それを手助けするのが職業的使命である。相手方にも相応の事情があることが常であろう。しかし、中立的な立場で仲裁するのは、弁護士ではない。弁護士は、あくまで依頼者の味方として動く(ただし、依頼者が不当なやり方で権利を実現することを望み、弁護士にそれを要求するような場合、弁護士はそれを拒否してよいし、拒否すべきだ。)。

「いい弁護士」を雇える立場にある者、「いい弁護士」が誰であるか知る立場にある者が有利になることは仕方がないことであるのか。「司法改革」で誰でも弁護士が使えるようになったと言いつつ、結局このあたりの実質的な格差はむしろ拡大していく可能性が高いと思う。しかし、私は、それも仕方ない、と思ったりしている。

努力・工夫をした人もしない人も、同じリターンなんだったら、努力・工夫なんてしない。少なくとも私はそうだ(もちろん、リターンといっても、私が仕事をしたことでもらえる報酬のことだけではない)。国民・市民にとっても、「いい弁護士を雇えればうまく行きやすい、だから探す・選ぶ」、という形でインセンティブが働く。今後は、国民・市民の側でも、これからは、いかに表面的な広告にだまされないで、いい弁護士を見つけるかがカギになってくるだろう。現状からすると、そういう方法論が国民・市民に浸透するまでに、相当な犠牲が出るかもしれない。