裁判によって人は救われるのか? 思いつきメモ

もともと、私はいろんなものを懐疑的に見るようなところがあるので、弁護士になるにあたって、別に「弁護士になって正義のために力を尽くすのだ。自分が信念に基づいて働くことで社会は良くなるのだ。」と思っていたわけではない。

むしろ、「調べる」、「知る」ということが好きなので、そうしたことに関連する楽しみがあるのではないかと思っていた。うまく表現しにくいが、「知的好奇心」といったところだ。

今は、事件の登場人物それぞれの立場から見て、その人ごとに主張する「事実」が異なること、「正しさ」の感覚が異なること、「落としどころ」の捉え方が異なることを面白いと思っている。

そうやって、事件を概観して、各立場からの眺めを想像することが興味深いからこそ、この仕事に楽しさを感じる。

図太い正義感や思想上の強い信念がなくても、仕事に取り組むことは楽しいし、案外ストレスを感じていない。

ストレスをあまり感じないのは、当事者と完全には「同じ気持ち」になっていないからであるかもしれない。しかし、私は、当事者の気持ちを理解していないわけではない。

むしろ、私は、自分のことを、いろいろな立場にいる人の「意図」を推察するのが得意だと思っている(勝手にそう思っている)。

 

裁判によって、人は救われるのか?

この問いに対し、一言で答えることはできないだろう。

救われるべくして救われる人もいれば、救われるべきなのに救われない人もいる。救われるべきではないのに救われてしまう人もいれば、当然救われない人もいる。

そして、司法手続によって不幸になる人もいる。司法手続の作用により泣く人もいる。

刑事手続の結果・過程により、刑罰権の行使対象になったり、被疑者となって実質的な制裁を受けたりする人は多いが、そうしたことが誰かのためになっていることもあれば、マイナスの連鎖を生んでいる場合もある。

 

弁護士の仕事は、何なのか?

司法手続によって、正当な自己の権利を実現したい人の手助けをする役目? 逆に、「正当な権利を実現したい」と思ってアクションを起こした人には、相手方が存在することが多く、相手方にも言い分はあるだろう(検察官に起訴された被告人もこのカテゴリーに入るかもしれない)。そういう意味では、弁護士は、司法手続に巻き込まれた人を手助けする立場でもある。

正当な権利は実現されるべきだというのは「正しい」命題かもしれない。それを実現する場所は、裁判所か。しかし、裁判所を通じることによって、当事者が実際体験したこと以外のところで有利不利が生じることがある。裁判所では「法律」という言語システムを理解していなければ、適切なタイミングで適切な主張を酌み取ってもらうことができないことがあり、「いい弁護士」が付いていると有利になり、その相手方が不利になることが否めない。大まかに言えば、「うまいことやった」者が「うまいことやらなかった」者より有利になるという可能性があるということだ。

弁護士は、依頼者が正当な権利を実現しようと希求している限り、それを手助けするのが職業的使命である。相手方にも相応の事情があることが常であろう。しかし、中立的な立場で仲裁するのは、弁護士ではない。弁護士は、あくまで依頼者の味方として動く(ただし、依頼者が不当なやり方で権利を実現することを望み、弁護士にそれを要求するような場合、弁護士はそれを拒否してよいし、拒否すべきだ。)。

「いい弁護士」を雇える立場にある者、「いい弁護士」が誰であるか知る立場にある者が有利になることは仕方がないことであるのか。「司法改革」で誰でも弁護士が使えるようになったと言いつつ、結局このあたりの実質的な格差はむしろ拡大していく可能性が高いと思う。しかし、私は、それも仕方ない、と思ったりしている。

努力・工夫をした人もしない人も、同じリターンなんだったら、努力・工夫なんてしない。少なくとも私はそうだ(もちろん、リターンといっても、私が仕事をしたことでもらえる報酬のことだけではない)。国民・市民にとっても、「いい弁護士を雇えればうまく行きやすい、だから探す・選ぶ」、という形でインセンティブが働く。今後は、国民・市民の側でも、これからは、いかに表面的な広告にだまされないで、いい弁護士を見つけるかがカギになってくるだろう。現状からすると、そういう方法論が国民・市民に浸透するまでに、相当な犠牲が出るかもしれない。

 

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