最近の私の興味は,金沢市の町名である。
金沢市の町名と言えば,旧町名復活運動がある。平成に入り,かつての町名変更で消えてしまった町名を復活させる機運が出てきた。市議会の議決により,平成11年には主計町,平成12年には飛梅町・下石引町,平成15年には木倉町・柿木畠,平成16年には六枚町,平成17年には並木町,平成19年には袋町,平成20年には南町,平成21年には下新町・上堤町が復活した(一旦名前が変えられたものが元の名前に戻された)。
金沢市が旧町名復活運動の先進地となっている感もある。
しかし,そもそも,金沢市は,昭和37年(1962年)5月施行の住居表示法(正式名称「住居表示に関する法律」)に基づく住居表示整備実験都市の指定を昭和37年8月に自治省から受け,住居表示の現代化のモデル都市とされ,それに基づいて,歴史的な町名が整理統合されて急激に塗り替えられてしまったという経緯がある。
金沢市は歴史ある都市で,それゆえか,全国の都市の中でも,町名が細かく分かれていた。当時,東京オリンピック(昭和39年,1964年)の開催が決まり,国際化,特に欧米の風習を取り入れて欧米に追いつくという意識が強まる中,昔ながらに細かく分かれた町名は,非合理的な旧弊と捉えられた。殊に,国の指導者層や中央官庁においては,そうした旧弊ひとつひとつが気になったのだろう。郵便事業との関係で,行政活動の利便性向上を期した面も大きかった。今となって捉えれば,金沢市もそうした潮流に呑まれた構図だが,金沢市民の気風からしてみれば,全国に先駆けて新しい風習を取り入れることに市民自身が積極的だったのかもしれない。
金沢市議会は,昭和38年3月,「金沢市住居表示に関する条例」を可決,同6月には市役所内に住居表示課ができ,同月には寺町地区などで最初の住居表示が実施される迅速さだった。
こうして,昭和38年から昭和45年ころにかけて,どんどんと金沢市の旧町名は消え,新しい住居表示が導入されていった。
たとえば,「中央通町」というのは,昭和40年9月の町名変更で新しくできた町名である。昭和39年に「片町中央通り」が開通し,その周辺が「中央通町」と名付けられたわけである。この町名に統合されたのは,裏伝馬町,下伝馬町,古藤内町,茶木町,犀川下川除町(一部),南長門町(一部),横伝馬町(一部),塩川町(一部),宝船路町(一部),西御影町(一部),富本町(一部),西馬場町(一部),新川除町(一部)である。
また,新町名を作るのではなく,代表的な旧町名をひとつ残してそこに統合したパターンも多い。たとえば,「尾張町」。昭和45年6月の町名変更で,今町,尾張町(南部),殿町(一部),味噌蔵町下中丁(一部),味噌蔵町片原町(一部),博労町(一部),橋場町(一部),中町(一部)が合わさって尾張町一丁目になり,上新町,下新町,主計町,尾張町(北部),橋場町(一部),母衣町(一部),博労町(一部),下近江町(一部),彦三二番丁(一部),桶町(一部),袋町(一部),青草町(一部)が合わさって尾張町二丁目になった。
「材木町」は,もともと,材木町通りの両側から成り立っていた町名だったが,旧材木町三丁目・四丁目・五丁目以外は,別の町名になってしまった。
このような勢いで,金沢市の町名は全域的に改変の対象になってしまった。
もちろん,町名の改変に対しては反対する声もあった。金沢市でも,町名改変や吸収統合に町会が納得しなかったなどの理由から,旧町名がそのまま残されたものがあった。たとえば,十間町,博労町,西町三番丁,西町四番丁,西町藪ノ内通,下堤町,下松原町,青草町,上近江町,下近江町といった近江町周辺の町名である(一部は尾張町に吸収されるなどしたが)。
全国的に町名変更(新住居表示)が行われる中で,町名に愛着のある人たちは容易に納得することはなく,次第に反対の声が大きくなっていって,町名変更作業が滞るようになっていった。特に,東京オリンピック前後に,お上から降って湧いたように町名変更が行われた東京では,反対の声が抵抗運動に結びつき,昭和40年代には町名変更の取消訴訟が複数提起された。昭和42年には,そうした全国の地域住民からの批判が高まった結果,「できるだけ従来の区域及び名称を尊重する」との立法趣旨のもと住居表示法の改正まで行われた。
ついに昭和58年(1983年)には,自治省行政局振興課長が各都道府県総務部長にあてて,「住居表示の実施に伴う町区域及び町名の取扱いについて」と題して,「現在の町区域及び町名はそれ自体が地域の歴史,伝統,文化を承継するものである」から,「今後の住居表示の実施に当たっては,住民の意思を尊重しつつ,みだりに従来の町区域を全面的に改編し,整一化を図ったり,また,町名を全面的に変更するということのないよう」都道府県が市町村を指導せよ,と通達した。
金沢市の町名改変についても,昭和57年(1982年)出版の『金沢・町物語~町名の由来と人と事件の四百年~』の中で,元中日新聞北陸本社報道部次長・編集委員・事業部長の高室信一氏が批判的な目を向けている(私のこの投稿は,この書籍に拠るところが大きい)。
こうして,一回りして,金沢市でも,強引な町名改変への反省と,伝統的な町名の見直しの機運が高まっていったのである。
しかし,金沢市での旧町名復活は,ごく一部にとどまり,今後もどんどんと実現が見込まれる状況にはない。その要因としては,一度変更したものを再度戻す場合のコストの問題,新旧名称の好き嫌いの問題,分断された旧町名を再統合することの困難さ,旧町名で道路方式をとっていた場合に現在金沢市で取っている街区方式から逸脱するので採用困難であること,等が挙げられる。
私は,かなり新しいもの好きだけれども,歴史あるもの・由来のあるものも好きだ。しかし,この問題については,歴史・由来重視である。利便性を優先して新しいものに変えていくという発想もあってよいと思うが,それならそれで,歴史を踏まえて考え尽くし,遺憾のないようにすべきである。一旦壊してしまうと,戻らないものも多いのだから。