反対尋問を経ない陳述書の証明力について

最近、私が担当している民事訴訟で、証拠として関係者の陳述書を提出する機会がありました。

提出先は地方裁判所です。

弁論準備手続でその陳述書を取り調べたとき、裁判官がある発言をしたのですが、それは後述します。

この裁判官の発言を聞いて、以前簡易裁判所で経験した理不尽なことを思い出したのでした…。

陳述書って?

裁判所の民事訴訟では、「陳述書」を多用します。この陳述書、どういう位置づけかというと、訴訟での法律上の「主張」を裏付ける「証拠」です。要するに、証明したい事柄を記した書面ではなく、証明したい事柄を証明するための材料そのものです。

この、「主張」と「証拠」の違いが非常に重要なポイントです。

訴訟では、何も証拠を出さないと、相手が自分から認めない限り、「主張しているだけで証拠がない」という扱いになります。ここでいう「証拠」というのは、たとえば、契約書のようなもの、日記のようなもの、写真のようなもの、誰かの証言、現地を検証した結果などです。これは、訴訟の類型によって本当に千差万別です。

このうち、誰かの証言というのは、主に法廷で行われる証人尋問とか本人尋問のことです。証人や本人(原告や被告)が話したことが証拠になります。もちろん、言うだけで全部正しいとはなりません。他の証拠などによる裏付けがなければ、証明力(事実を証明する力)が弱くなります。証言の証明力もさまざまなのです。また、反対尋問と言って、相手方は証明力を崩すための尋問をしますので、一見もっともらしく証言しても、逆効果になることもあります。

ところで、現在、日本の裁判所では、ぶっつけで証人尋問や本人尋問をすることは少なく、事前に証人・本人を作成者とする「陳述書」を提出させます。これによって、裁判官は、事前に証人の発言内容を予測して、的確に発言を捉えることができるようになります。また、反対尋問をする相手方は、陳述書を参考にして反対尋問の準備をします。

こうした陳述書の作成者は、そこに名前を書く人(名義人)ということになります。

しかし、実際には、こうした陳述書の作成過程というのは多様です。名義人が自分で構成して仕上げるということもあります。弁護士が名義人から事情を聴き取ってそれを書面化し、名義人がその内容を確認の上署名押印するという場合もあります。弁護士が代理人に付いている訴訟の場合は、弁護士の手で証拠を裁判所に提出するのが通常ですので、どちらかといえば、弁護士が内容をまとめることのほうが多いでしょう。

このように、弁護士が話を聴き取って陳述書の内容をまとめるということ自体は、特に問題なく行われています。このようにして出来上がった書面であっても、作成者は名義人です。もちろん、名義人自身が書面の内容と自分の記憶をしっかりと照合して、内容に間違いのないことを確認した上で、署名押印をする必要があります。それをいい加減にしていると、証人尋問のとき、名義人自身が述べていることとして陳述書に書かれていることなのに、「そんなこと知りません」とか「違います」ということになって、陳述書の内容全体の信用性がガタッと落ちてしまいます。

逆の観点から言えば、陳述書におかしなこと(特に、重要な客観的証拠に反する内容)が書かれている場合、訴訟の相手方は、証人尋問(反対尋問)のときに、陳述書の名義人に対し、それを問いただす質問ができるということになります。陳述書というある意味「書き放題」な書面は、そうした反対尋問を経ることで、その信用性が測定されるわけです。

反対尋問がされないとき、陳述書は…

冒頭の話に戻ります。

私は、関係者が作成した陳述書を提出しました。しかし、重要な争点との関連性が薄いこともあり、私はその関係者の証人尋問を申請しませんでした。

相手方も、その関係者の証人尋問を申請せず、裁判所も職権で尋問することはないようでした。

この場合、この陳述書は、言いっぱなしになります。ここに書かれたことはどう扱われるべきでしょうか?

ここで、裁判官の発言がありました。「反対尋問を経ていない陳述書ですので、相応の証明力になります。」という趣旨の発言でした。

私は、陳述書を提出した側ですが、この考え方については、一般論として賛同します。争いのある争点について、その関係者の述べることを柱に立証したいという場合には、立証したいと望む側がその関係者を証人申請して、相手方に反対尋問の機会を与えるべきであると思います。そうやって、反対尋問の洗礼を浴びてもなお、その関係者の述べることに真実味があると判断できる場合には、その陳述書や証言に高い証拠価値が置かれることになるべきです。

私の、簡裁での理不尽な記憶とは…

ここで、次のような考え方もあるかもしれません。

陳述書を提出した側がその関係者の証人申請をしない場合に、相手方もその関係者の証人申請をできるのではないか? そうやってスルーしたということは、反対尋問権の放棄と考えて、裁判所がその陳述書を根拠にして自由に事実認定してしまってよいのではないか? (特に、その関係者が裁判所に出て来られないような特段の事情がない場合です。)

しかし、このような考え方は妥当ではないと私は思います。陳述書を出して証人申請しないという場合、そこに書かれたことを単にそのまま引用して判決を書かれても困るので、相手方が証人申請しないといけなくなります。相手方の証人を裁判所に同行するわけにもいかないので、裁判所を通じて呼出状を出してもらい、旅費や日当なども仮に負担したりしなければならなくなります。

これは明らかに実のない駆け引きです。こういう事態を誘発しないように、陳述書を出した側(立証したいことがある側)がその陳述書の作成者を証人申請しない場合には、相手方が作成者を証人申請しなくても、陳述書の証明力はそれ相応に取り扱われるべきでしょう。

この考え方は、法曹一般に理解されていることだと思っています。

しかし、弁護士になって間もない頃、私は、簡易裁判所で理不尽な思いをしました。私が被告側を引き受けていた民事訴訟でのことです。

大まかな事件の構図を言うと、両者の押印のある典型的な契約書があり、相手方(原告)がその契約書の内容とは異なる契約内容を主張しているという事件でした。相手方(原告)は原告本人の陳述書を提出しましたが、それは弁護士がまとめた作文のような内容で、原告本人尋問も申請しませんでした。被告申請により、被告関係者の尋問だけが行われました。

ところが、判決には、「被告は原告の陳述書の作成の真正を争っておらず、原告の陳述書を証拠とすることに同意している」とか「原告の陳述書は具体的で迫真性を有するから信用できる」「それに反する被告の主張は採用できない」というような意味合いのことが書かれていて、契約書は無視されてしまい、陳述書に書かれた契約内容がそのまま事実として認定されてしまいました。

私は、この判決を読んで、簡易裁判所の場合は、裁判官役の人が法律家の常識を備えていない場合もあるのだと知りました。これ以降、かなり警戒感を持っています。

ただ、このときの対応に関しては、私もかなり甘かったのだと思います。その簡裁判事は、「原告自身がこの陳述書を作成したという点については、被告も争わないのですね」ということをわざわざ確かめてきたことがあったのです。刑事事件で、弁護人が、検察官や警察官作成の被告人供述調書をそのまま証拠とすることに同意するかしないか意見を言うシステムがあるのですが、その裁判官役は、どうやらそのやり方で証拠とすることの同意をとってしまえば陳述書の内容をそのまま判決にできると思ったようなのです。その頃の私は、判決を読んではじめてその発言の意図を知った未熟者でした。イヤな予感はしていたのですが、本当にそうだったのか、という…。

なお、その判決書には、私の名前の前に

訴訟代理人弁護人って書かれてました。

いや、私、刑事事件の弁護人じゃないんですが…。何の法廷だったのか。

その後も、簡裁ってどうかな、と思う出来事がいくつかあるんですが、この件が最も強烈で、ずっと忘れません。

最近、こちらが訴えた簡裁の事件で、相手方(被告)の弁護士が、移送の上申書ではなく、うまく準備書面で移送をやんわりと促していて、簡裁判事もそれを読んで地裁に移送していました。ベテランになると、簡裁判事の顔を潰さず移送させるうまいやり方を持っておられるのだなぁと思いました。

今回の地裁の裁判官の発言で、苦い思い出をまた思い出し、それとともに、地裁はまだ基本的な部分で信頼できるなと思った次第です…。これからも経験を積み重ねて、いろいろな事態に対応できるよう努めていきたいと思っています。

金沢大学の新入生さんに道案内・・・

今日の夕方,時間が少しあったので,裁判所に向かって歩いていました。

今日はお役所の人事異動の日であり,金沢地方裁判所の裁判官も何人か代わるので,開廷表の横にその名前が貼り出されるかな?と思って。

 

そんなわけで,歩いていたとき,1人の女性が道を尋ねてこられました。

持ちにくそうな大きな荷物を持って歩いておられ,金沢の繁華街の中心部(香林坊)の方向を尋ねられたので,お教えしました。大きな荷物を抱えて歩くのが大変なようで,兼六園下から香林坊までは歩くと少し遠く,兼六園下のバス停からバスに乗った方がいいですよ,とも言ってあげたら,バスに乗っていくことにしたようでした。

関西から金沢大学に入学することが決まった新入生の方だということでした。下宿で使う電化製品を運んでいるようで。

私は,北陸から関西へ出たクチですが,その逆パターンもあるんやな~と,思いました。

いや~,金沢,車がないと不便すぎるよね。私も,住み始めたとき,車がなくて,方向音痴なものだから,思ったように進めなくて泣きそうになりました。特に金沢地裁の周りは何かあるようで何もなさすぎるし,ぐねぐね道が曲がっていて高低差があって,慣れていないとよくわからないんです。

あのままだととてもつらい思いをしたはずなので,私が道案内してあげたことで,たぶんけっこう助かっただろうな,と思いました。

私は,こうやって助けてあげることが好きです。気持ちよさを感じますね。ボランティアでガイドをしようと思ったことはないですけど。

 

それで,本題の,金沢地裁の裁判官の異動ですが,なんと,裁判所内の開廷表横の掲示は,3月までの裁判官の名前のままでした

正式には今日じゃないってことなんですかね?

いや,しかし,金沢地裁・金沢家裁のホームページはもう今日の時点で更新されている!→ 金沢地方裁判所 金沢家庭裁判所

(これは各地裁ごとに更新するようなので,ずっと更新しないサボリの地裁もあるくらいだから,全国基準からすると相当早い取り扱いですよ。)

そうすると,なぜそうなっているのか?

4月1日は公開の裁判の開廷予定がないので,前のままでも嘘にはならない,また,次に開廷表を貼るときに一緒に貼りかえれば省力化できる(ホームページの更新との違いは,ホームページには開廷表がないので,いずれは裁判官の名前を単独で更新しなければならない。それに対して,掲示の貼り紙の場合,一緒に貼りかえにに来ることによって,職員のエネルギー消費量を抑えることができる。)ということですかね?

いや,実際,それくらいしか理由なくないですかね?

(または,一旦変更しても,また数日したら再変更しなければならないっていうような事情があるとか。これも,紙ベースの場合は紙の節約になる。)

これ自体すごくどうでもいいことですが,上に書いたようにホームページ更新サボリの地裁があったり,役所によってもいろいろと性格が違うようで,面白いです。特に,裁判所は,妙なところで決まり事を作って自己正当化(と言ってはよくないですかね)の理屈づけをしていたり,逆に決まり事がないものについてはルーズに済ませたりするので,それが面白いんですよね……。

裁判官の暴言で慰謝料?

裁判官暴言:「あなたのせいで左遷」に慰謝料 長野地裁

毎日新聞 2014年02月02日 13時00分(最終更新 02月02日 13時33分)
民事訴訟の口頭弁論で担当裁判官に暴言を吐かれ、公平な裁判を受けられなかったとして、長野県飯田市の男性が国と長野地裁、裁判官に約220万円の慰謝料などを求めた訴訟の判決で、地裁飯田支部(加藤員祥<かずよし>裁判官)は男性の訴訟活動を制限する感情的な発言があったと認め、国に慰謝料3万円の支払いを命じた。30日付。裁判自体は公平だったと判断し、地裁や裁判官への請求は退けた。

判決によると、男性は2010〜11年に飯田支部であった損害賠償訴訟の被告。11年8月の第6回口頭弁論で、担当の樋口隆明裁判官が、新たな主張を展開した男性に「今日、結審する予定だった」「あなたの審理が終わらないので、上司から怒られているんだ。私の左遷の話まで出ている」などと突然、顔を赤らめて怒り、男性に恐怖感を抱かせた。加藤裁判官は、樋口裁判官の個人的な事情を理由にした感情的な発言だったと違法性を認めた。一方で、樋口裁判官が発言後、男性の言い分を聞いたことなどから、裁判の公平が損なわれたとの主張は認めなかった。【横井信洋】

男性は、裁判官の感情的な発言により恐怖の感情を抱き、精神的損害を受けた。その損害を金額に換算すると3万円と認められる。そして、国家公務員の職務上の行為の問題なので、裁判官個人ではなく国が賠償責任を負う(国家賠償法1条1項)。ということだろう。

過去に、こうやって、裁判官の法廷での発言について損害賠償を認めたケースってあるのだろうか?

かなりひどい発言がされても、のちのち発言者(裁判官)が発言内容を否定したら、証明が難しいと思う。裁判の期日に何が話されたか、裁判所が調書にして残すことになっているけれども、結局裁判所書記官が書き留めたことを担当の裁判官が認証するんだし、裁判官の暴言がもしあっても、発言通りには載らないと思う。

今回のは、あたかも見てきたように事実認定されているが、事実自体は争わなかったのだろうか? 嘘をつけば偽証になるので、気軽に忘れたふりをしにくかったのかもしれない…。でも、国賠案件は、訟務検事が出てきて、万全の態勢で臨んでくるのだから、訴えられた裁判官の一存で訴訟対応を決めたのではないはず。

今回のは、あまりにも否定できないシチュエーションだったのだろうか。

原告も国も控訴して東京高裁に係れば面白い(ひとごと)。

あの裁判官がついに…。楽しみすぎる本。

衝撃的な発売情報が…

http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%B6%E6%9C%9B%E3%81%AE%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80-%E7%80%AC%E6%9C%A8-%E6%AF%94%E5%91%82%E5%BF%97/dp/4062882507/

アフィリエイトではないです。

絶望の裁判所 [新書]

 

著者は…… 瀬木 比呂志 !!

裁判官室に必ずある『民事保全法』という分厚い本の著者です。

新日本法規サイトの経歴

以下は、amazonからの引用。

登録情報

  • 新書: 256ページ
  • 出版社: 講談社 (2014/2/19)

商品の説明

内容紹介

裁判所、裁判官という言葉から、あなたは、どんなイメージを思い浮かべられるのだろうか? ごく普通の一般市民であれば、おそらく、少し冷たいけれども公正、中立、廉直、優秀な裁判官、杓子定規で融通はきかないとしても、誠実で、筋は通すし、出世などにはこだわらない人々を考え、また、そのような裁判官によって行われる裁判についても、同様に、やや市民感覚とずれるところはあるにしても、おおむね正しく、信頼できるものであると考えているのではないだろうか?
しかし、残念ながら、おそらく、日本の裁判所と裁判官の実態は、そのようなものではない。前記のような国民、市民の期待に大筋応えられる裁判官は、今日ではむしろ少数派、マイノリティーとなっており、また、その割合も、少しずつ減少しつつあるからだ。そして、そのような少数派、良識派の裁判官が裁判所組織の上層部に昇ってイニシアティヴを発揮する可能性も、ほとんど全くない。近年、最高裁幹部による、裁判官の思想統制が徹底し、左派系裁判官は一掃され、リベラルな良識派まで排除されつつある。
三三年間裁判官を務め、学者として著名が著者が、知られざる、裁判所腐敗の実態を告発する。情実人事に権力闘争、思想統制、セクハラ・・・、もはや裁判所に正義を求めても、得られるものは「絶望」だけだ。

著者について

一九五四年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。一九七九年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務、アメリカ留学。並行して研究執筆や学会報告を行う。二〇一二年明治大学法科大学院専任教授に転身。民事訴訟法等の講義と関連の演習を担当。著書に、『民事訴訟の本質と諸相』、『民事保全法』(各日本評論社)等多数の専門書の外、関根牧彦の筆名による『内的転向論』(思想の科学社)、『心を求めて』(騒人社)『映画館の妖精』(同)、『対話としての読書』(判例タイムズ社)があり、文学、音楽(ロック、クラシック、ジャズ等)、映画、漫画については、専門分野に準じて詳しい。

ちょっと、ちょっと…。

いや、まぁ、昨年出版された新著についてのレビューが気になってはいたんだが。

なーんか、まぁ、面白いことになってきたというか。

今からわくわくします。今年、弁護士の間で、話題にされることの多い本になるのでは(裁判官は読んでも話題にしないかもしれません)。

司法試験の受験回数制限、5回に?

司法試験「5年で3回」を「5年で5回」に緩和

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20140108-OYT1T00696.htm

政府は、司法試験の受験回数制限を現行の「5年で3回」から「5年で5回」に緩和することを柱とした司法試験法改正案を、1月召集の通常国会に提出する方針を固めた。司法試験の合格者数の増加につながりそうだ。
早ければ2015年実施の司法試験から適用される。

06年に始まった現行の司法試験制度では、初の制度見直しとなる。

法務省によると、司法試験受験資格を得た後、勉強時間を確保する目的で、年1回の司法試験をすぐには受験しない「受け控え」が目立っている。だが、13年実施の司法試験をみると、法科大学院修了直後の受験生の合格率が39%であるのに対し、09年修了の5年目の受験生は7%と、受験が遅れるほど合格率は低下する傾向にある。このため、回数制限について、「受験生を必要以上に慎重にさせている」と疑問視する声が出ていた。

(2014年1月8日14時59分  読売新聞)

司法試験の受験回数制限は緩和されるのか?

現在の制度になっている理由

現在の制度の概要

現在、司法試験は、法科大学院修了者または予備試験合格者が、その法科大学院修了・予備試験合格後5年のうちに3回まで受験できることになっています。3回不合格になるか、5年経過すると、受験資格を失います。

制度の根源~司法制度改革審議会~

このような制度になっている根源を探っていきますと、まず、「司法制度改革審議会」(内閣に設置)の存在があります。2001年(平成13年)6月12日付けの「司法制度改革審議会意見書~21世紀の日本を支える司法制度~」、これは、今、非常に問題になっている審議会の意見書です。

法曹養成制度については、その意見書の「III 司法制度を支える法曹の在り方」に書かれています。受験回数制限については、

第三者評価による適格認定を受けた法科大学院の修了者の新司法試験の受験については、上記のような法科大学院制度及び新司法試験制度の趣旨から、3回程度の受験回数制限を課すべきである。なお、予備的な試験に合格すれば新司法試験の受験資格を認めるなどの方策を講じることとした場合の受験回数については、別途検討が必要である。

と書かれています。ここで「上記のような法科大学院制度及び新司法試験制度の趣旨」が何かということですが、受験回数制限の記述の前には、

 (1) 基本的性格 
 「点」のみによる選抜から「プロセス」としての新たな法曹養成制度に転換するとの観点から、その中核としての法科大学院制度の導入に伴って、司法試験も、法科大学院の教育内容を踏まえた新たなものに切り替えるべきである。

 (2) 試験の方式及び内容 
 法科大学院において充実した教育が行われ、かつ厳格な成績評価や修了認定が行われることを前提として、新司法試験は、法科大学院の教育内容を踏まえたものとし、かつ、十分にその教育内容を修得した法科大学院の修了者に新司法試験実施後の司法修習を施せば、法曹としての活動を始めることが許される程度の知識、思考力、分析力、表現力等を備えているかどうかを判定することを目的とする。 
 新司法試験は、例えば、長時間をかけて、これまでの科目割りに必ずしもとらわれずに、多種多様で複合的な事実関係による設例をもとに、問題解決・紛争予防の在り方、企画立案の在り方等を論述させることなどにより、事例解析能力、論理的思考力、法解釈・適用能力等を十分に見る試験を中心とすることが考えられる。 
 新司法試験と法科大学院での教育内容との関連を確保するため、例えば、司法試験管理委員会に法科大学院関係者や外部有識者の意見を反映させるなど適切な仕組みを設けるべきである。

 (3) 受験資格 
 法科大学院制度の導入に伴い、適切な第三者評価の制度が整備されることを踏まえ、それによる適格認定を受けた法科大学院の修了者には、司法試験管理委員会により新司法試験の受験資格が認められることとすべきである。 
 また、経済的事情や既に実社会で十分な経験を積んでいるなどの理由により法科大学院を経由しない者にも、法曹資格取得のための適切な途を確保すべきである。このため、後述の移行措置の終了後において、法科大学院を中核とする新たな法曹養成制度の趣旨を損ねることのないよう配慮しつつ、例えば、幅広い法分野について基礎的な知識・理解を問うような予備的な試験に合格すれば新司法試験の受験資格を認めるなどの方策を講じることが考えられる(この場合には、実社会での経験等により、法科大学院における教育に対置しうる資質・能力が備わっているかを適切に審査するような機会を設けることについても検討する必要がある。)。 
 いずれにしても、21世紀の司法を支えるにふさわしい資質・能力を備えた人材を「プロセス」により養成することが今般の法曹養成制度改革の基本的視点であり、およそ法曹を志す多様な人材が個々人の事情に応じて支障なく法科大学院で学ぶことのできる環境の整備にこそ力が注がれるべきであることは、改めて言うまでもない。 

という記述がありますので、要するに、これからの司法試験は、法科大学院での教育効果をチェックする趣旨であり、せいぜい3回のチェックまでで合格しなければ法科大学院の教育により法曹適格性を身につけたとはいえない。ということを言いたいのだと思われます。

そして、司法制度改革審議会の議事録を探ると、35回議事録(2000年(平成12年)10月24日開催)に、

【佐藤会長】有り難うございます。

先ほど既に出ましたけれども、このまとめにもあるんですが、新司法試験についてはプロセスを大事にするということにも関係して、受験回数を3回程度に制限するということを考えるべきではないか。滞留するとまたいろいろ問題が出てくる。ちゃんと教育を受けて、3回とも通れないというのはいかがなものかということですね。その辺はよろしいでしょうか。

【曽野委員】それについては何年以内にというのは設けないんですか。せめて何年以内に3回と決めておく。

【佐藤会長】制度設計としては、試験時期が問題なんですけれども、そこで試験をまず受ける。そして、通らなければ次回。受験者はいろいろなことを考えるんでしょうね。

【井上委員】普通では続けて受験するということでしょう。時間を置くと法科大学院での教育の効き目も薄らいできますから、余り後になると多分受からないだろうと思うのですけれども、確かにおっしゃるように、飛び飛びに受けるという人が出てくることは考えられますね。その辺は、具体的な制度設計の段階で、考えてもらうということではいかがでしょうか。

【藤田委員】受験回数の制限は、学生たちの関心が非常に強くていろいろ質問に来るんですが、以前、敗者復活みたいな話がありましたね。何年か期間を置いて再度の挑戦を認めるとか、そういう議論は全くなかったんでしょうか。

【井上委員】余り期間を置きますと、プロセスによる養成というものの効果がなくなりますので、もう一回プロセスをやり直してくれと言わざるを得ないんじゃないかと思いますね。

【藤田委員】分かりました。

【佐藤会長】教育の中身も変わっていくかも分かりませんしね。

実際に具体的に考えるときに、曽野委員のご指摘も含めて考えさせていただきたいと思います。

とあり、軽く議題に上っています。35回司法制度改革審議会は、審議会の中間報告のとりまとめの時期でしたが、中間報告(2000年(平成12年)11月20日)を確認してみると、

新司法試験については、上記のような法科大学院制度及び新司法試験制度の趣旨から、3回程度の受験回数制限を課すべきである。

と、すでに最終意見書と同様のことが書かれているわけです。

では、これを言い出したのは誰(どこ)なのか、さらに議事録をさかのぼると、集中審議第1日議事録(2000年(平成12年)8月7日)が発見されます。

この集中審議第1日には、文部科学省に設置された「法科大学院(仮称)構想に関する検討会議」(小島武司座長)の審議状況についての報告がなされています。

ここで、小島座長は、「法科大学院制度及び新司法試験制度の趣旨を考えると、3回程度の受験回数制限を設けることが合理的と考えます。」との発言をしています。

この発言の根拠を探るため、法科大学院(仮称)構想に関する検討会議の議事録を検索しました。すると、唯一第8回議事録(2000年(平成12年)7月31日)に記載があり、小島武司(座長)、井田良、伊藤眞、加藤哲夫、田中成明、金築誠志、川端和治、清水潔、房村精一、井上正仁、鳥居泰彦、山本勝、吉岡初子の各氏出席によりなされた意見交換の場で、

現行試験の受験回数制限については、弁護士会は、厳しい競争試験のうえ、さらに回数制限を行うことには弊害が多いため強く反対してきたが、司法試験が資格試験化し、相当割合が合格するのであれば、それに合格しないような者について制限をしても問題はないという考え方から方針を転換したものである。したがって、「現行制度についての反省及び法科大学院制度の趣旨を考える」という理由で回数制限を認めるという意見は少なくとも弁護士会には全くなく、「相当割合が合格する試験であることを考える」という内容に直すべきではないか。

とか

司法試験の受験回数の制限については現行制度に対する反省というよりも、「法科大学院制度及び司法試験制度の趣旨から考えると」とするべきではないか。

という意見が出されていて、この時点で、受験回数制限について、文部科学省側の会議の案に取り入れられていたことがわかります。このうち、1つ目の意見については、発言者が記録されていないようですが、発言の趣旨からすると、当時の日弁連副会長川端和治氏の発言であると推測されます。

話を司法制度改革審議会集中審議に戻します。司法制度改革審議会集中審議では、上記文部科学省検討会議の状況報告を受け、議論がなされています。受験回数制限については、井上正仁氏(学者)の発言があります。

今の司法試験の合格率が3%ということになってきたのは、一つは、オープンな性格の試験であるがゆえに受験回数の制限というのができなかったということもあるのですね。その辺は、今度はこういう丁寧な教育をした上で選別をするということで、受験回数の制限を最初から掛けていこう。それによって、たまってくる人は一定限度に抑えられるだろうという制度設計になっている。その点をまず指摘させていただきます。

この井上氏の発言は、わりと率直なもので、滞留者の増加を抑えたいがための制度設計であるということです。

さらに議事録をさかのぼり、回数制限についての言及を探すと、第8回議事録(1999年(平成11年)12月8日)に、原田明夫法務事務次官の発言として、

 司法試験の改革の話を、先ほどちょっと触れました。これは、ここの委員でもおられる中坊先生が日弁連の会長をなさっているときに、大きな転換を遂げました。司法試験の改革は本当に難しかったんですが、いろんな意見を集約して、とにもかくにも人数を、それまで500人くらいに据え置かれていた司法試験の合格者の数を700人にし、やがて800人にする。そして、そのための改革をやっていただきました。そのためには、実は合格枠という新たな設定をいたしました。これはある面で評判が悪かったんです。というのは、司法試験の合格者の年齢がどんどん高くなっていくわけです。そして、何年も何年も掛かるということになっております。これは、社会的問題にさえなってまいりましたのは、諸先生方も御承知のとおりでございます。そこで、一つの考え方として、一部の先生方、これは私大の先生方が多いんですが、もう回数制限をしてくれと。3回でもいい、5回でもいい。そうしないと、学生がかわいそうだと。一旦足を取られたら抜け出せないと。回数を制限してくれれば少し変わるんじゃないかという意見もございました。

 しかし、これに対しても、やはり学生諸君、または人材の中には、じっくり勉強して、だんだん育っていく人たちもいるわけでございますから、回数で、あるいは年齢で制限するのは問題だと。ですから、せめて、増やす200人分くらいは、3回の回数にいたしましょうということでつくったのが合格枠です。

 これもいろいろ考え方があって、憲法違反ではないかという意見もございました。その当時、憲法学者の先生方にも意見を聞きましたが、必要な場合に、その取り扱いさえ合理的で、かつ平等ならば、ある種の枠を考えるということも必要ではないか。必ずしも憲法違反とは言えないという考え方を示していただいて、そのような制度を採った。その結果、司法試験を受けようという学生の数が戻ってまいりした。そして、また、若い人たちも受かると同時に、例えば主婦の方とか、ある程度仕事をした方が、司法試験を目指して勉強して、3回目くらいですっと入ってくる人たちが増えてきました。

 私は、ある有名な政治家の方の息子さんのお嫁さんが、子育てが終わって試験を受けて合格して、非常にいい感覚を持って修習をしてくれるのに出会って、こういうこともあるんだなと思いました。ですから、私は、合格枠制も一つの使命を果たしてきたと思います。しかし、そのことはまた、それをこれからどうやっていくかということも、全体の法曹人口問題を考える中で、どうぞお考えいただかなきゃならないことだろうと思います。

というものがあるほか、第15回議事録(2000年(平成12年)3月14日)に小津博司法務大臣官房人事課長が

我が国の司法試験は、受験期間の長短や受験回数にかかわりなく、すべての人に全く同じ試験をいたしますので、長期受験者が非常に多くなった状況の中でどういう試験の運営をしたら、こういう能力を実質的にも公平に安定して選抜することができるのかということにつきまして、管理委員会と考査委員の先生が苦慮し続けてきたと申し上げてよろしいかと思います。

と述べています。

今回は、これ以上さかのぼりませんが、要するに、旧来の受験者滞留状況を打破し、法科大学院中心の法曹養成制度とするため、その一環として受験回数制限が導入されたといってよいでしょう。

受験回数制限の緩和の発想が出てくる理由

こうやって導入された受験回数制限を緩和する発想はどこから出てくるのでしょうか?

これを言っているのは,内閣に設置された法曹養成制度検討会議(佐々木毅座長)です。この会議の取りまとめ[pdf](2013年(平成25年)6月26日)は,次のように言っています。

○ 受験回数制限制度は維持した上で,法科大学院修了又は予備試験合格後5年以内に5回まで受験できるよう,その制限を緩和するべきである。

この理由は,次のとおりだそうです。

・ 受験回数制限制度は,旧司法試験の下での問題状況を解消するとともに,プロセスとしての法曹養成制度を導入する以上,法科大学院における教育効果が薄れないうちに司法試験を受験させる必要があるとの考え方から導入したものである。この点について,法科大学院の教育状況が目標としていたとおりにはなっていないことや法科大学院修了後5年の間に合格しない者が多数いることなどから,受験回数制限自体を撤廃すべきであるとの立場もあるが,受験回数制限を撤廃して旧司法試験の下で生じていた問題状況を再び招来することになるのは適当ではなく,また,法科大学院修了を受験資格とする以上は法科大学院の教育効果が薄れないうちに受験させる必要もあると考えられる。さらに,法曹を目指し,司法試験を受験する者の多くを占める20歳から30歳代は,人生で最も様々なものを吸収できる,あるいは吸収すべき世代であり,本人に早期の転進を促し,法学専門教育を受けた者を法曹以外の職業での活用を図るための一つの機会ともなる。したがって,受験回数制限を設けること自体は合理的である。

・ 受験回数については,現行制度は,3回程度の受験回数制限を課すことが適当と考えられ,その上で,受験生が特別の事情で受験できない場合があり得ることも考慮し,5年間に3回受験できることとされている。

・ もっとも,現在,多くの受験生がより多くの回数受験することができるものとすることを求めている。そもそも,受験回数制限制度において制限される回数については,3回とすることが必須であるというものではなく,その制度の趣旨に反しない限度であれば,受験回数制限を緩和することも考えられる。この点に関し,これまでの司法試験の結果によれば,法科大学院修了直後の者の合格率が最も高く,受験期間が長くなるにつれて合格率が低下する傾向にあるところ,受験期間を維持するのであれば,この傾向に与える影響は大きくないと考えられる。また,受験期間と受験回数との差がない方が,受験資格があるのに受験を控えるようなことはなく,全ての受験者が法科大学院教育の効果が最も高いときから間断なく受験することになるとの利点もあると考えられる。さらに,受験回数制限を緩和し,受験期間内において司法試験を受験できることとすれば,単年合格率が低下し,更に志願者を減少させるおそれがあるとの意見もあるが,受験回数制限を緩和しても受験期間の途中で司法試験を受験しなくなる者も一定数いることが想定されることからすれば,単年合格率の低下は一定の範囲にとどまると考えられるし,累積合格率はほとんど低下しないものと想定される。また,今後,制度全体の改善を図ることによって,法曹志願者の減少を防ぐことは可能であり,むしろ,受験回数制限を緩和し,5回まで受験できるとする方が法曹を志願しやすい環境につながると考えられる。以上のことから,受験回数制限制度は維持した上で,法科大学院修了又は予備試験合格後5年以内に5回まで受験できるよう,その制限を緩和することとするべきである。

「旧司法試験の下での問題状況」とは,受験生の滞留と合格率の低下のことでしょうか?

「プロセスとしての法曹養成制度を導入する以上,法科大学院における教育効果が薄れないうちに司法試験を受験させる必要があるとの考え方」ということは,導入当初はっきりと言われていなかったと思います。まぁ,とにもかくにも「プロセスとしての法曹養成制度」(もったいぶっていますが,要するに法科大学院のことです)を維持するためには,法科大学院を出てすぐの者だけに受験資格を限定しないと,大変なことになるよ,ということですね。

それで,「現在,多くの受験生がより多くの回数受験することができるものとすることを求めている」,「むしろ,受験回数制限を緩和し,5回まで受験できるとする方が法曹を志願しやすい環境につながると考えられる」ということが,回数制限の回数を3回から5回に増やす理由のようです。

井上正仁氏は回数制限緩和に反対

議事録をざっと読んでいると,法曹養成制度検討会議の構成員の中でも,賛否は分かれていたようです。詳しい議論は,第6回議事録(2012年(平成24年)12月25日)をご覧下さい。

回数制限の緩和に賛成の立場から発言をしているのは,清原慶子氏(三鷹市長),丸島俊介氏(弁護士),松野信夫氏(法務大臣政務官,民主党参院議員),岡田ヒロミ(消費生活専門相談員),国分正一氏(医師)であり,和田吉弘氏(弁護士)は「法科大学院修了を司法試験の受験要件から外すべきだ」というのが持論であるが受験要件を維持する前提であれば回数制限の緩和に賛成。

回数制限の緩和に反対の立場から発言をしているのは,井上正仁氏(学者),田中康郎氏(元裁判官,現学者)。

回数制限の緩和に消極的な発言をしているのは,伊藤鉄男氏(元次長検事,現弁護士),久保潔氏(元読売新聞),鎌田薫氏(学者,早稲田大学総長)。

意見を留保しているのは,萩原敏孝氏(小松製作所特別顧問)。

こうやって,意見が出された後,パブリックコメントを募集する際の「中間的取りまとめ」を出すにあたって,出てきた案というのが,まず,

○ 受験回数制限制度は維持した上で,制度の趣旨も踏まえつつ,その制限を一定程度緩和することが適当かどうか,更に検討する。

というもの(第11回議事録(2013年(平成25年)3月27日),第12回議事録(2013年(平成25年)4月9日)参照)。

これが,第11回,第12回で議論がほとんど深まらないまま,中間的取りまとめ[pdf](2013年(平成25年)4月9日)に反映されました。

会議の結論

第13回事務局提出資料[pdf]の資料2には,パブリックコメントの結果につき,次のとおり書かれています。

◎ 司法試験の受験回数制限につき,現行の制度を維持すべきであるとするもの,おおむね5年間に5回までに緩和(期間制限を維持し,回数制限を廃止する。)すべきであるとするもの,一切の制限を廃止すべきであるとするものが主に見られた。

ひどく羅列的なまとめ方になっていますが,こうなったのは,パブリックコメントを集めた結果,法科大学院を中心とする法曹養成制度への疑問が数多く寄せられたため,また,司法修習生への給費制復活を求める意見が数多く寄せられたため,意見の通数で優勢・劣勢を表現して結果を報告することが「危険」であると考えたからであると思われます。

受験回数制限については,意見の多寡を発表しても問題は生じなかったでしょうが,一律の扱いにしないと,法科大学院を強制する制度や給費制の問題について,パブリックコメントの結果を隠蔽しているかのように受け取られるからです。

実際には,受験回数を緩和すべきであるとした意見が多かったようです。

結局,法科大学院強制制度という根本問題や司法修習生への給費・貸与の問題については,パブリックコメントの意見の多さや内容は実質無視される形になりましたが,なぜか受験回数緩和についてだけ,パブリックコメント直後に「座長試案」が出される形で,一気に進展してしまいます(第13回事務局提出資料[pdf]の資料10~13)。

第13回議事録(2013年(平成25年)5月30日)では,井上氏が次のように発言しています。

○井上委員 すみません,これから授業があるものですから。簡単に2点だけ申させていただきますと,受験回数制限の緩和については,既に御意見を申し上げ,現行の制度を維持することに合理性があるということは述べてきたところですので,繰り返しませんが,仮にこの案のように,制限緩和というのが皆様の大方の意見であり,そういうまとめになるとしましても,その実施時期と経過措置については,十分慎重な配慮が必要だろうと思います。と言いますのは,今日お示しいただいたシミュレーションを見ましても,どのぐらいの幅になるかは別として,ようやく司法試験の合格率が下げどまりになって,これから徐々に上がっていく見込みが出てきたところですので,これを更に下げる結果となるようなことは,できる限り避けていただきたいからです。法科大学院志願者の減少については,弁護士の就職難が最大の理由だという御意見があったり,他の理由を上げる人もいますけれども,やはり,その大きな原因の少なくとも一つ,あるいは私などは最大の要因だと思っていますけれども,司法試験合格率が低迷しているということだと思うのですね。その点についての配慮が必要ですので,経過措置については,この案の①のほうが下げ幅が狭いので,そちらの方法を採る。実施時期についてもこのシミュレーションの結果などを踏まえて,いつから実施するかということについては慎重に検討していただきたいというのが1点目です。
2点目は,試案に盛り込まれていない部分ですけれども,予備試験について,何らかの方向を出すのは時期尚早だとされているわけですが,事態は非常に急速に,かつ広範囲で進行し深刻化しているのは紛れもない事実ですので,様子を見ながら検討するということで結構ですけれども,これも法的措置の検討などと平仄を合わせて,今後2年間で何らかの措置が必要かどうか,必要だとすればどうするかということを検討し,結論を出すということとしていただきたいと思います。

また,第14回議事録(2013年(平成25年)6月6日)では,井上氏が次のように発言しています。

○井上委員 受験回数の緩和については,私は反対ですけれども,その議論を繰り返すことはいたしません。ただ,この理由づけのところ,見え消しの18ページで,受験回数制限を緩和すると合格率が低下し,志願者が減少することにつながるのではないかという意見もあるが,の後ですが,受験回数制限を緩和しても云々という部分,これは前はこういう指摘もあるという文章だったのを,検討もせずにそのまま本会議の認識のように書かれてしまっているわけですが,結論を正当化するためにここまで書かざるを得ないのか,正直疑問に思います。特に,途中で司法試験を断念する者が相当数いることが想定されることからすれば,というのは,希望的観測に過ぎない。もちろんいることはいるだろうとは思いますけれども,相当数いるとまで言っていいのかどうかですね。御提案としては,そのような者もいること
が想定される,とするか,それでは勢いが出ないとすれば,少なくとも「相当数」を「一定数」と改めるべきだと考えます。結論として,回数制限緩和には反対ではありますけれども,この際ひっくり返すようなことは言いませんので,理由はもっと丁寧に書いていただきたいと思います。

第15回には,自由民主党司法制度調査会からの法曹養成制度についての中間提言[pdf]が提出されました。この4ページには,次のように書かれています。

現在は,5年間で3回と限定されている受験回数制限について,特に法科大学院生からは不安の最大の要因になっているとの声があった。このような制限は必要限度を超えており,まずは5年間で5回の受験を認めるべきである。

また,公明党法曹養成に関するプロジェクトチームが作った法曹養成に関する提言[pdf]も提出されましたが,7ページには次のように書かれています。

法科大学院を中核とするプロセスとしての法曹養成制度の下においては,司法試験は法科大学院教育における学習の成果を確認する試験と位置付けられるべきものから,これについて受験回数制限を設けることは適切である。しかし,現状の低合格率の下,法科大学院修了後5年以内に3回という回数制限を「有効に」活用するため,法科大学院を修了しても意図的に司法試験を受験しないという「受け控え」といわれる回数制限の趣旨に反する現象が広く生じている。このような現状を踏まえるならば,司法試験の受験回数制限については,法科大学院修了後5年以内に5回まで受験できるものと緩和することが適当である。

このように自公両党から意見が出されていることにつき,第15回議事録(2013年(平成25年)6月19日)で清原慶子三鷹市長は,次のように言っています。

そこで,1点目,「受験回数制限を5年間に5回」としたことは,本日紹介されました自由民主党及び公明党のそれぞれの提言でも書かれていることであり,意を強くしたところで,このことについてはなるべく早く実現できればと願っています。

そして,最終的に,「受験回数制限制度は維持した上で,法科大学院修了又は予備試験合格後5年以内に5回まで受験できるよう,その制限を緩和するべきである。」という取りまとめ内容に至ったものです。

受験回数制限の緩和は実現するか?

このように政府案としてお膳立てされ,与党である自公両党が推進している方向の変更ですから,今年1月召集の通常国会で法案が成立すると考えるべきでしょう。

会議体に日弁連が派遣している構成員も賛成するくらいですから,民主党,共産党など野党がほとんど賛成する可能性も高いと思います。みんなの党(結いの党)は司法改革に一家言あるようですが,反対するかどうかは何とも言えませんし,人数が少なすぎます。

この後説明しますが,この緩和により,法科大学院の足もとはさらに揺らぐことが予想されます。そんなことは,少し考えればわかることであるのに,法科大学院寄りの構成員の意見を排斥しても受験回数制限の緩和という方向へ行くのですから,政治的に何らかの推進力がかかったものではないかと,私は考察しています(文部科学省の内部にもいろいろあるのかもしれません)。

司法試験の受験回数制限により,何かが好転するのか?

結論

しません(断言)。

理由

井上正仁氏が言うように,この変更は,年ごとの司法試験合格率を低下させる可能性が非常に高いです。

途中で司法試験を断念する者が相当数いることが想定されることからすれば,というのは,希望的観測に過ぎない」と井上氏が言っていますが,まったくそのとおりです。

そして,自民党の意見書の中に書かれている「5年間で3回と限定されている受験回数制限について,特に法科大学院生からは不安の最大の要因になっているとの声があった」ということ。このような不安除去を受験回数制限維持&緩和の正当化根拠とするのは,完全に間違いです。3回でも5回でも不安なものは不安です。むしろ,4回目(4年目)・5回目(5年目)になると,余計不安です。おそらく,これは,自民党が法科大学院生の意見を曲解して採り上げているのだと思いますが,本当に法科大学院生がこのように言っているとすれば,不安の先送りばかり考えて冷静さを欠いているのではないかと思います。

よって,井上氏が危惧するところは当たっていて,司法試験や法科大学院への志望者を回復するどころか,減らす施策であるといえます。少なくとも,割合的に,志望者の中のまともな人が減り,まともでない人が増える,そんな施策です。

うまくいかないとすればどうなるか?

一旦5年5回にしてしまったら,5年3回に戻すのは非常に難しいので,つらい状況が続くだけでしょう(本当は,3年3回にすれば少しはまともになるでしょうが,政治的に無理でしょう)。

5年5回の「先」の問題が出てくる頃までには,法科大学院をいくつか取りつぶしてみたり,予備試験の受験を制限してみたり,いろいろやるかもしれませんが,制度上法科大学院への進学を強制している限り,好転はしないでしょう。「法科大学院修了者で司法試験に合格しない(受験しない)人」というのが「学部卒」よりも就職市場において価値が出てくれば話は別ですが。

ちなみに

ちなみに,私の持論は法科大学院強制制度を撤廃し,誰でも受験できるようにすること,その上で司法試験合格者数はある程度のボリュームを保つことです。

回数制限は…,いつ方針転換するかは,自己責任,自己決定なんじゃないのかなと思います。というか,もう,法曹資格を持っているだけでどうにかなるという時代ではないわけで,法曹資格を持っているいないにかかわらず,どうやって仕事をしていくかということを真剣に考えた方がいいんじゃないかと思うのです。